純 潔
(1) 精神的なもの
青年はなぜ女性の純潔をもとめるのか
こういう想い出から書きはじめるのは、読者の方たちにある衝撃を与えるかも知れませんが、我慢してお読みください。
昭和二十年の三月上旬でした。その前夜、読者の方たちも覚えていられるかもしれませんが、東京の上空を芥子粒(けしつぶ)のように敵機の編隊が押し寄せ、家も街も炎の海に変えてしまいました。
翌朝、ぼくは学徒動員で働かされている工場にでかけるため、まだ褐色の煙のくすぶっている街の中を通り抜けていきました。路ばたには人間の形をした真っ黒な灰がいくつも転がっている。ロース・トビーフのように焼けただれて膨れあがった死体もある。彼らの四股(しし)はまるで棒のように硬直していました。
その中で、ぼくはふと、一人の娘の死体をみました。モンペをはいてた彼女は首を横にして、焼け残った防空壕のかたわらに、うつ伏せに倒れていました。一見したところ、傷らしいものは何処にもない。着ている着物だって、少しも裂けていないのです。足早やに、ぼくはそこを通り過ぎました。
当時、ぼくの死にたいする感覚は、既にすりへらされ、鈍くなっていました。死体というものは至る所で見ることができましたから、死んだ人の姿に接しても、特別な悲壮感や悲しさも起こらなくなっていたのでした。
それは、ちょうどぼくが、今のあなたたちと同じ年齢のころでした。ぼくは学生でしたが、御存知のように、あの頃は、ぼく等にも何時、一枚の赤紙がまい込み、何時戦場に送られるか、わからなかった時代です。
死というものは既に、ぼくのまわりの至る所で匂っていました。昼間街は重く戸をとざし、家財を背負った人々が足をひきずりながら焼野ガ原を歩いていく。
夜になると、海のむこうから白い敵機の編隊が波のように押し寄せてくる。二十歳の青年にとっては、美しいもの、善きものの一片さえ、何処を探しても見つからぬように思われた日々です。
にもかかわらず、この娘さんの死体を通りがかりに見た時、ぼくは突然(ああ生きたい!)と感じました。だが、この気持ちは、それから少しずつ、ぼくのくたびれた心の底で動きはじめたのです。
(なぜだろう)ずっと、あとになって、ぼくはその時の感情を噛みしめ、考考えてみました。(なぜ、ほかの死体ではなく、若い女性の死体が、ぼくに生きる欲望を与えたのだろう。)
あの頃若い女性たちは、作業衣やモンペをはき、油や泥にまみれて、男たちと同じ労働を強いられていました。
工場の中でぼくらはこうした一群の乙女たちに出会うことがありました。黒いリュックを背負い、老婆のように肩をゆがめながら電車にのりこむ彼女たちを見ることがありました。
彼女たちの惨めな外見にもかかわらず、ぼく等は清冽な泉でも求めるように、これら娘たちに眼をとめました。娘たちだけが持つ、あの匂い、あの清純な匂いをむさぶるように嗅ごうとしました。
その欲望には、他の時代の青年たちよりも、もっと必死な、もっと切実なものがこもっていました。
なぜなら、そのほかの世界は、ただ、死に充たされていたからです。ぼく等に彼女たちがまだ持っている若々しい声、白い皮膚の中になにか生命のシンボルが残っているような気がしたのです。
(俺たちはやがて、戦場で死ぬかもしれないが、この娘たちには・・・)
彼女たちには疲れ果てたぼく等の心を時として疼(うず)かせる生の刺激のようなものでありました。粗末な衣服、油でよごれたその顔や姿態の奥にぼく等青年はやはり、自分たちに既に失われていたものを探し当てていたのです。
そしてほくが、一人の娘の死体からうけた感情は、そのようなひそかなものに根ざしていたのに違いありません。
「純潔」という題と、この話とはいささか縁遠いように皆さまは思われるかもしれ知れません。だが、あの戦争中にそのような感情を味わったぼくは、そこに根をおいて、この問題も考えてみたいのです。
今日、二十代の皆さまは、これを書くぼくと十歳(現在約四十歳)の年齢の隔たりがある。戦争中、貴方たちは学童疎開でまだ小学生だったでありましょう。
あした極限の状態で、外面的装飾をかなぐり捨てた悲しい時代、あさましい人間関係に直接巻き込まれなかった方がいられれば、幸福だったといえます。
ぼくもこの話を、時々、若い学生たちに語る時があるのですが、いつも、ある同情のこもった眼差しや微笑みで迎えられます。
ときにはクスクスと笑うお嬢さんもいます。「男の子たちはそんな深刻な気持ちで女性を求めませんわ」というようです。
だが、ぼくは今の青年だって、ぼく等と同じような気がします。職業柄、二十代の青年たちと接触する機会はぼくには少なくありません。彼等がぼくらの世代よりも自由に女性たちと交わり、時には彼女たちを安易に獲得していく様をみています。
だが、青年たちは、決して変わるものではない。彼等もまた十年前のぼく等とは形こそ変われ、別の死の匂いで包まれた時代に属しているはずです。
彼等が貴方たちを探し、貴方たちを求めるのは、たんにあの肉欲の衝動だけのためではない。勿論、青年たちは、貴方たち女性がはかり知ることのできぬ程、この暗い衝動に苦しみますが、決してそれだけで女性を探すのではない。いかなるドン・ファンの青年についても、ぼくは同じことが言えると思っています。
意識的にせよ、本能的にせよ、青年たちは女性の中に、肉欲の充足とは、もっと別なものをひそかに求めているのです。
青年たちは、中年男のようにカサノバ型ではなく、よし、彼の性生活が無軌道であるとしても、その心の背後にはひそかな、ドン・ファン的な欲望があるはずです。だが、
彼等が、貴方たちの中に肉欲を通して、肉欲の充足とは別なものを探しているとすれば、それは何でしょうか。
それはあの戦争中における、ぼく等の感情と同じもの、一言でいえば「生の刺激」であって、決してたんに
「性の刺激」だけではないと思います。
つづく
処女と童貞と